※西暦紀元前478年に建てられたアテネの城壁に描かれているレリーフ 「日本ホッケー九十年史」より引用
近代ホッケーの発祥
ホッケーの歴史は古代エジプトにまでさかのぼります。紀元前2500年頃ナイル川流域で発見された墓の壁画にホッケーをしている姿が描かれているのです。また、紀元前1000年頃のエチオピアにも、その原型を見ることができます。コロンブスが新大陸を発見する何世紀も前に、南米のアズテック・インディアンが、ホッケーをしていた証拠が残されています。
しかし、現在私たちが目にする近代ホッケーは、19世紀半ばに、イギリスのクリケット選手たちが、試合のできない冬場に始めたのが基礎とされています。1871年には最初のホッケークラブが結成され、1886年にはロンドンで協会が発足、それまでさまざまなクラブが、独自のルールで試合を行っていましたが、協会発足を機に、統一ルールのもとで競技が行われるようになりました。
オリンピックがホッケーを世界に広げる
オリンピック史上にホッケーが登場したのは、1908年第4回のロンドン大会で、イングランド、アイルランド、スコットランド、ウェールズ、ドイツ、フランスの6カ国が参加し、イングランドが初代金メダルを獲得しました。その後、1920年第7回アントワープ大会に再登場しましたが、続く1924年第8回パリ大会には、主催者が国際連盟がないスポーツの出場を認めず、大会に参加することができませんでした。このことがきっかけとなり、1924年、国際ホッケー連盟が正式にパリで組織されました。
FIHは、設立と同時にヨーロッパ各国が次々と参加し、目覚ましい発展を遂げました。また、女子のゲームも各国で急速に発展し、1927年にlnternational Federation of Women’s Hockey Association(IFWHA)が設立されました。FIHとIFWHAは、1982年にFIHとして統合され、以後、男女ともにFIHが世界のホッケーを管轄する組織となっています。本部をベルギーのブリュッセルに置き、現在FIHは、5大陸連盟、119の加盟協会を有しています。また1999年には設立75周年を迎え、エジプト・アレキサンドリアにて盛大に式典が催されました。
日本ホッケー史
第一回全日本ホッケー選手権大会は大正12年12月1~2日、陸軍戸山学校において行われた。 第1回優勝を飾った慶応の準決勝戦。4対3戸山学校(白ユニホーム)を破る。 スティックの型がなつかしい。
「日本ホッケー九十年史」より引用
日本に於けるホッケーの歴史
明治39年(1906年)、秋も深まった11月中旬、場所は慶応義塾の講堂に、英国人の牧師ウィリアム・丁・グレーが有志を集め、ホッケーを教えはじめました。早速クラブが創設され、11月23日午後3時より、芝公園グランドにおいてグレー自らスティクを握り、ゲームの方法を教えました。終了後、義塾倶楽部の食堂において100名の参加者のもと発会式が催され、3日後の11月26日より日比谷公園のグラウンドで練習が開始されました。これこそが記念すべき日本ホッケーの誕生の瞬間だったのです。
慶応義塾に伝えられたホッケーですが、当初はまさに孤軍奮闘でした。対戦相手が見つからず、唯一の相手はYCAC(横浜外人クラブ)でした。最初の数年間は練習不足のため勝てませんでしたが、3年後の明治42年(1909)、ついに東京外人チームを5-0で破り初勝利をものにします。
やがて大正3年、慶応OBの東京倶楽部が結成され、大正7年には大阪ホッケー倶楽部が生まれ、大正11年に陸軍戸山学校にもホッケー部が設立され、翌12年(1923)、明治大や早稲田大、そして地方では京都倶楽部、阪神倶楽部等が誕生し、その年の11月18日に日本ホッケー協会の前身である大日本ホッケー協会が設立されました。そして翌月の12月1日には第一回の日本選手権が始まりました。初代チャンピオンは慶応義塾、翌大正13年(1924)には日本最古の定期戦である早慶戦も始まり、翌年、日本陸上連盟、日本水泳連盟、日本サッカー協会、全日本スキー連盟、日本庭球協会、日本漕艇協会とともに、大日本ホッケー協会は大日本体育協会に加盟します。これは体協への競技団体加盟の最初であり、つまり第一期生となったのです。そして昭和6年(1931)には国際ホッケー連盟へ加盟しました。そして、日本ホッケー協会も、以前は任意団体でしたが、法人化に取り組んだ結果、昭和55年9月20日法人格を取得し、社団法人日本ホッケー協会となりました。
また、女子ホッケーも、大正14年(1925年)に明治神宮競技場において二階堂女塾が模範試合を行ったのをきっかけに、昭和6年には第1回日本選手権が開催され、成城高女が制しています。そして昭和14年の全日本選手権大会で羽衣高女が初優勝し、永く関東の成城によってリードされた女子ホッケー界の主力が関西に移っていきました。そして昭和39年、ついに日本女子ホッケー初の海外遠征として羽衣チームのインド遠征が実現しました。
その後は前後して大学、高校、中学、実業団、社会人チームが結成されるようになり、また国体によるホッケーの普及とチーム数増加に伴い、各種大会の開催も相まって国内におけるホッケー競技は大きく発展しました。1998年には男子に先駆け、7チームによる日本リーグ(fリーグ)がスタート。そして男子の日本リーグも始まり、2005年からは国内の最高レベルの大会として、男女16チームによる新生ホッケー日本リーグが始まりました。
オリンピックでの活躍
昭和7年(1932年)、この年は日本ホッケー界にとって最も忘れがたい年といっても過言ではないでしょう。第10回ロサンゼルス大会で、団体競技としては水球とともに初めての参加栄誉を担っていました。アメリカ大陸での開催という事情もあって、ホッケーの競技参加はインド、アメリカ、日本の3カ国、日本は強豪インドに負けはしたものの、開催国の意地に賭けて戦ってきたアメリカを9-2のスコアで圧倒し、見事銀メダルに輝いたのです。続くベルリン大会にも参加。メダルこそ獲得できませんでしたが、第1組で2勝1敗の成績を残しました。その後、戦争によリオリンピックの参加は長らく途絶えますが、昭和35年(1960年)、ローマ大会に出場し戦後初参加を果たします。
続いて東京、メキシコ大会にも出場しました。しかしその後はオリンピック出場を果たせず、またアジア大会や各種の国際大会に出場し選手強化を行うものの世界の壁は厚く、人工芝の導入によるホッケー競技の劇的な変化もあり、男女とも日本ホッケーが世界の舞台に立つことはできませんでした。
しかしながら国内の人工芝フィールドも徐々に増え、各年代層のチームも増加し、国内大会の充実など、ようやく世界に挑戦するバックグラウンドが整った中、シドニーオリンピック出場をスローガンに2000年3月、初めて男子のオリンピック予選を大阪で開きました。結果は今一歩及ばず惜しくも出場を逃しましたが、それまでの選手強化が実り、2001年のワールドカップ予選で見事出場権を獲得しました。一方女子も長期の選手強化により、過去の選手とは比較にならないほどの国際経験を持った選手が多くなり、男子同様2001年6月フランスで行われたワールドカップ予選で4位という素晴らしい戦績で出場権を得ました。
そして2002年のワールドカップには男女揃っての出場となり、2002年3月に男子のワールドカップがマレーシアで開催され日本は12位、12月オーストラリアでの女子ワールドカップでは10位となりました。そして2004年3月、男女ともにアテネオリンピック予選大会に出場、男子は惜しくも出場権を獲得できませんでしたが女子はニュージーランド・オークランドの予選大会で見事な初優勝を飾り、初のアテネオリンピック出場を決めました。そして初出場で2勝、8位入賞となり日本ホッケーの新たな歴史が始まりました。
現在、日本ホッケーは男女とも世界のトップ6とは少し実力に差は見られますが、それ以下のチームとは互角もしくは僅差の競り合いができる力を持っており、今2008年北京に向け日々強化に励んでいます。